神道のこころ

神道は宗教とされていますが、それは戦後からであり、もとは日本人の生活、知恵のことをさします。日本では、畑や田んぼを作っても必ず森を神の領域として残してきました。そして、その恵まれた自然に感謝する気持ちがあります。外国の、登山で山を征服するという言葉で代表されるような、自然は人間の力で造り変えるものという発想はありません。

キリスト教はイスラエルの砂漠地帯から生まれ、仏教はガンジス川の流域、混沌とした大地から釈迦が出てきました。そのような環境の厳しいところから出てきたから、自分を変えなければ生きていけない。そのために祈る。それが基本にあります。ところが、日本は自然に恵まれているため、自分を変えることではなく、それに感謝をしてきました。

日本の神話には、たくさんの神様が登場し、天つ神、国つ神というように分かれています。天からお恵みを下さる神様と、地からお恵みを下さる神様の両方の神様がいらっしゃる。塩はまさに地の恵みで、地中から噴出したマグマが海水で冷えて、マグマの成分が溶け出してできたもの。ひとの体液も海水とよく似ています。天の恵みはまさに太陽のエネルギーです。これら両方の恵みを存分に受けているのが樹木です。なかには千年を超えて生きるものもあります。ひとは、植物のように地に根ざして生きていけませんので、天地両方からの恵みを受けて育った米や野菜を食べて、地のエネルギーをいただいています。天と地、これらエネルギーが神話でいうところの天つ神、国つ神です。ひとが生きていけるのは、まさに神々のお恵みのおかげです。

ですから、神社にお参りするときには、感謝をする心が大切です。よく自分のお願いごとをしてしまいますが、まず、生かされていることに感謝します。それから自分がやろうとしていることを心の中で念ずればよいでしょう。これだけお賽銭を納めるから何とかお願いしますというのは神様との取引になってしまいます。

太陽の光は暖かく明るいですが、それは空気によって反射されているからであって、太陽と地球の間の宇宙空間は暗く冷たい。これと同じで、平等に与えられている神様のお恵みも、感謝することによってはじめてその人の前にあらわれてきます。幸福が与えられたから感謝するのではなく、感謝するから幸福が与えられる。反射と感謝は同じです。

今どんな状態にあっても、「ありがとうございます」とお参りしてみましょう。実際に、私たちが生きているのは、体のそれぞれの機能が意識することなく自然にはたらいてくれるおかげです。60兆個あるとされる細胞は、祖先からの記憶を留めた遺伝子をもとに日々破壊と再生を続け、同じ体が維持されています。これをみても私たちは自分で生きているのではなく、生かされているということがよくわかります。精神論ではありません。

この世には、いろいろな悩みや苦しみあります。それは、生かされているという感謝の気持ちを忘れ、自分の力で生きているという「我」の心が原因であらわれてくるのだと思います。この「我」を無くすために、何事も神様のお恵み、祖先の恩とによって生かされていることに、「おかげさま」と感謝の手を合わせましょう。仏教では、山にこもったり、滝に打たれたり、座禅をしたりということをやりますが、神道には修行というものはありません。毎日の生活の中で、わが身を磨き、我欲を捨て、神様に近づいていくことが神道です。

神道には難しい経典はありません。感謝のこころそれだけです。その本質は建物の造りにもあらわれています。伊勢神宮のご神殿も大変シンプルです。外国の教会というとシャンデリアがあったり、ステンドグラスがあったりきらびやかですが、シンプルなところに神様が存在する。神楽をはじめとする舞も、外国のような活発な動きはなく、非常に静かです。極限まで動作を制限し、そこに神をあらわしています。お能でも、同じ面を持ってわずかな傾き具合で喜怒哀楽を表現します。喜んだ面、怒った面をかぶるとかそういうのではありません。絵でも日本画と洋画はずいぶん違います。西洋の油絵は画面いっぱい背景は全部ぬりつぶします。これは人間の力で何でも変えようとの考えがあらわれています。一方で、日本画は背景が真っ白で鳥一羽書いただけでも大空を舞っている姿が想像できます。

戦後、日本は戦争に負けたことで欧米の文化に傾き、過去の歴史や伝統文化を否定し、子孫に伝えなくなりました。さらに高度経済成長により戦前までの農業から工業化へと変わり、昔からの神道の存在は薄れてきました。しかし、本当は以上のようなすばらしい自然観をもっているのです。

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