ハレとケ

日常生活(ケ)が続くと、だんだん気が枯れてくる(ケガレる)。それを晴らし気を取り戻すのがハレ(気晴らし)で、その結果、気が元に戻って「元気」になる。そのためにハレの日を年に何度か用意していました。それが祭りです。例えば、京都の八坂神社の参道にはおみやげ屋さんが並んでいます。昔から寺社の参詣は心が晴れ晴れとするもので、娯楽的な趣もありました。
日常のケを重ねてきて、ケを締める「ケジメ」という行為が生まれます。

大和言葉

文字が中国からやってくる前、日本人は言葉で意思疎通をはかっていました。そして、その言葉の一語一語には意味があります。特定の言葉ではなく、日本の原点の言葉という意味で使います。神主さんが奏上する祝詞は、すべて大和言葉で書かれています。
例えば、

「ひかり」
ひ=神様の御霊
かり=籠もる(こもる)

美しい光を見て、きれいだ、神様がいらっしゃる、神そのものだと感じて、「ひかり」という言葉が出来ています。太陽の力なしでは生命は生まれません。ですから、太陽の力も神様として称えられて、おひ(神様の御霊)さまといいます。私たちの体は、ただの物ではありません。体の奥深いところに神秘の無限の力が宿っています。それで、男の子はひこ(彦)、女の子はひめ(姫)といいます。ひ(神様の御霊)が体に止まっているからひと(霊止)。神様にふさわしい行いをする者がひと(霊止)で、そうでないのがひとでなしです。
ひかり


「さけ」
さ=稲の御霊
け=氣

稲の氣が入ったアルコールがさけ(酒)。その苗がさなえ(早苗)、これを植える女性がさおとめ(早乙女)。稲を植える月をさつき(五月)、田植えに必要な雨はさみだれ(五月雨)。
酒早乙女


「さくら」
さ=稲の御霊
くら=座

稲の御霊が宿る神座(かむくら)。桜の木の芽が動き出したら田んぼをおこし、花が咲いたら種もみを播き、花が散ったら田んぼに水を張り、新緑が出そうなところで田植えを始める、というように桜の木のサイクルが稲作とぴったり合っていて、暦代わりとして田んぼの近くに植えられるようになりました。この田んぼを中心とした社会が、四月始まり三月終わりの年度サイクルをつくり、これをもとに祭りや行事が行われています。


「つき」
つ=丸い。「つつ」と二つつながると丸くて長い「筒」。
き=奇。不思議だなという意味。

「つき」は、丸くなったり欠けたりして不思議だなという意味が「つき」です。
つき


「むすこ むすめ」
むす=産す
こ=子
め=女

万物を生みなす霊力をむすひ(産霊)といい、このはたらきによって植物、動物、人間も生まれてくると考えられてきました。むすひは「結び」であり、たとえば水素と酸素が結びついて水になる、男女が結ばれ命をつなぐ。さまざまなものが結ばれ生み出されます。


「みち」
み=神様の居る神聖な
ち=道

「ち」だけで道を意味します。神々の行きかう場所が「みち」。人もここを歩きます。そのため、道股(ちまた)は、たくさんの神霊が行きかう所とされ、必ず神々が祀られています。集落の境や四つ辻には道祖神や地蔵、庚申塔がみられます。


「清める」
き=神様の素晴らしい気
よ=「余」と書いて「たくさん」
める=「薄める」などというように「おこなう」という意味

「きよめる」というのは、「神様の気をたくさん生まれさせる」という意味です。

「湯」
ゆ=神様の居る神聖な

神社内にある庭は、斎庭(ゆにわ)といいます。神主さんの奏上する祝詞にもよく使われています。「産湯」は、生まれた赤ちゃんを湯で清潔にするというのではなくて、神様のいる神聖な湯につけて、禊(みそぎ)をして、人生の第一歩を踏みだす神事です。亡くなったら湯灌(ゆかん)。仏事ではありません。仏教が入ってきたのは、約1500年前。それまでは神道でしていました。亡くなれば神様の国へ帰っていくので、神聖な湯でふき清めて禊をする。これも神事です。


「訪れ」
「音連れ」。目に見えない神霊の動きを、音によって感じてきた古代人の感性から生まれた言葉といわれています。
「秋きぬと目にはさやかに見えぬども風のおとにぞ驚かれぬる」(古今和歌集)この歌からも、神々の来訪を風の音など、自然のかすかな変化から感じとってきた祖先の豊かな感性を感じます。

注連縄(しめなわ)と鳥居

注連縄

太陽神である天照大御神が、天岩屋戸(あめのいわやと)から出られたときに、二度とお隠れにならないようにと、天岩屋戸の前にまわし架けたのが注連縄だとされています。縄張りをして、「天照大御神がいるべき神聖な場所は、この縄の張っているこちら側ですよ」と示しました。この由来から、神聖な場所の境に張られるようになりました。

當麻山口神社鳥居

このときにニワトリを止まらせた木が、そのまま鳥居の名と形になったといわれています。「鳥が居る」で「鳥居」。
注連縄の本体は雲、紙垂(しで)は雷光を示し、〆の子は雨の様子を表しています。稲の無事な成長のためには、雨の恵みが不可欠でした。新年や収穫の後の秋、田植え前の春など、1年の節目に注連縄をかけ替えます。注連縄は聖域を示す縄張りであり、稲作を中心にしてきた日本人の豊作の願いのあらわれでもあります。

天照大御神は天岩屋戸から出られたときに、自分の光で周りの神々の顔が白くみえて、「あな(ああ)、おも(面)、しろ」といいました。「面白い」はそこからきているのです。

平田春日神社
古事記解説

元旦

新年の始まりの朝を元旦といい、家庭に歳神様をお迎えするため、注連縄をはり、門松をたて、鏡餅等を供えて準備をします。元旦の「旦」は、地平線から昇りつつある太陽、つまり日の出を表します。歳神様は祖霊の性格をもつとされ、祖先に見守っていただいていることへの感謝をし、氏神様や崇敬神社をお参りして、前年の反省や新たな年を清々しくおくれるようにお祈りします。
元旦

神宮大麻

家庭で拝礼するお伊勢さま(天照大御神)のお神札。氏神さまのお神札とともに新年を迎える前に1年毎に新しくお受けしましょう。古事記によると、天照大御神が孫のニニギノミコトに稲穂をもって世の中を治めるようにいわれ、ニニギノミコトからその3代あとの初代天皇である神武天皇からいまの天皇に至るまで、宮中での新嘗祭、あるいは全国の神社での新嘗祭に代表されるように、稲作の拡大とともに全土にあまねく広まりました。天照大御神のお神札である神宮大麻をいただくことで神さまのご加護をいただきます。明治5年より全国のご家庭に頒布され、令和4年に150周年を迎えました。
神宮大麻

おみくじ

「御御籤」とかき、尊敬の接頭辞の「み」にさらに「お」をつけた呼び方です。吉凶にかかわらず、神様の御言(みこと)として心に受け止め、折に触れて自分への戒めとしましょう。ですから、ご神木や結びところに結うよりも持ち帰るほうが効果があるでしょう。
もとは公的な事業の決定や後継者選びなどで使われてきましたが、現在のように個人の吉凶を占うようになったのは、鎌倉時代始めの頃からです。
何度もおみくじを引くのは「神意」を疑うことにもつながりますから、避けたほうがよいでしょう。神社にもよりますが、大吉・吉・中吉・小吉・半吉・末吉・末小吉・凶・小凶・半凶・末凶・大凶の順です。
おみくじ

絵馬

作物が実ることを祈って、晴れを願うときは白馬、雨を願うときは黒馬が奉納されていました。毎回用意するのは大変ということで、やがて木の板に馬を描いて奉納するようになり「絵馬」となりました。五角形をしているものが多いのは、厩舎の屋根を模した名残です。
絵馬は「神様に喜んでいただく捧げもの」であるので、お祈りごとだけでなく、神様への感謝や喜ばせる言葉、自分の抱負を宣言するとよいでしょう。
絵馬

破魔矢

もとは破魔弓と一式になったもので、年占いの際におこなわれた弓射を起源にするものといわれています。各地区ごとに弓射を競い、勝ったほうがその年の豊作に恵まれるというもので、作物の豊凶を占うためにおこなわれてきました。江戸時代以降、子供の成長の無事を祈る縁起物として、装飾を施した弓と矢が男児の初正月や初節句に贈られるようになりました(女児は羽子板)。その後、簡略化されて、矢だけが1年の幸運を射止める縁起物として、正月に神社で授けられるようになったとされています。
本来「ハマ」とは弓射に用いた丸い的のことを指します。後に「ハマ」が「破魔」に通じるとして、魔を破り、災厄を祓う矢として信仰されています。
神棚や床の間など正常な場所に飾ります。矢先の方角については特に決められた方向はありません。
破魔矢

門松とお正月飾り

祖先の霊は山に鎮まるという考えがあります。お正月には山から歳神様として子孫を訪れるので、家にお迎えする目印です。神様というと神社に行ってお参りするものですが、歳神様を各々の家に迎えてお祀りします。
門松は、冬でも葉が枯れることのない常緑樹の松や、成長が早い竹が、生命力や繁栄の象徴として使われます。
歳神様に家の前の門松にお寄りいただいて、次に移られるが家に供えられた鏡餅です。お餅が昔の鏡のように丸いことから鏡餅とよばれます。新年に皆年を重ねる「数え年」のため、必ず重ねます。鏡は天皇家が代々受け継いでいる三種の神器の一つで、神様が宿るものです。もう二つは、 玉と剣。玉は橙(ダイダイ)。実が木についたまま年を越すことから子孫が代々(=橙)栄えるように。剣は串柿。災難除け、家内安全の祈願。この三種の縁起物でめでたいお正月を祝います。裏白はシダのことで、冬枯れの中ではひときわ緑濃く、「齢垂る(しだる)」にかけて長寿を願います。
門松鏡餅

初詣

元々、お正月は家で歳神様をお迎えするために、門松やお正月飾りを準備し、大晦日から家の中で静かに過ごすのが伝統的な姿でした。今のように寺社へ参拝するようになったのは明治時代からです。明治時代には、近代国家を目指そうと神道を国民的な宗教とする政府のはたらきありました。その中で、役所などで一律に神社に参拝するなど初詣の習慣がうまれ、近代化の中で鉄道網が進んで経済も成長し、レジャーとして楽しむようになりました。

お年玉

もともとは金銭ではなく、歳魂(としだま)と呼ばれる歳神様へのお供え物(小さな丸餅)で、そのおさがりを子供などに与える風習がありました。これを雑煮としていただくことにより、歳神様の力を得て、無事に一年を過ごすことができるという信仰がありました。そのため歳神様の代わりに年長者からお年玉をいただく習慣となりました。目上の方に贈る場合は「お年賀」とします。

お正月料理

おせち料理は正月や節句に神様にお供えするご馳走のことをいいました。お雑煮はお供え物のおさがりをごった煮にしていただいたのがはじまりです。お供え物には神様の御霊が宿り、それをいただけば、あらたなお力を授かることができると信じられてきました。
お正月は邪気を祓うとされる柳でできた祝い箸でいただきます。柳は家内喜とも書き、喜びを家の中に取り入れます。一方を私たち、もう一方を歳神様が使いともに食事をするために、両端が細くなっています。
お屠蘇おせち料理

五節句

1月7日 人日の節句、3月3日 上巳の節句、5月5日 端午の節句、7月7日 七夕の節句、9月9日 重陽の節句

奇数が重なる日なのは、陰陽五行では奇数は陽の数字で縁起が良く、偶数は陰の数字で縁起が悪く、奇数が二つ重なると偶数(陰)になり、陽から転じて陰になり縁起が悪いとされたためです。また季節の変わり目は体調を崩しやすく、邪気が入りやすい時期と考えられていました。そのような日に神様に旬の食べ物をお供えして無病息災を祈っていました。そのため節句(供)とよばれます。

人日の節句

五節句のひとつ。この日に七草を食べます。中国では一月七日に七草の野草を食べ、邪気を避けようとする風習がありました。これが日本で行われていた若菜を摘んで食す風習と重なり、七日の朝に七つの薬草の入ったお粥をいただきます。無病息災と長寿を願います。
七草

節分

季節を分けるの意味で節分。もともとは、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日のことです。昔の旧暦では一年の始まりは立春からで、節分は大晦日のようなもの。新しい年が始まる前に邪気を祓おうという日です。今でも年賀状に迎春、初春、新春と書くのは、立春が元旦だった名残です。

まく豆が炒ってあるのは、「豆を炒る」ことが「魔目を射る」からです。鬼に豆をまく風習は、鬼は邪気や厄の象徴で、豆は「魔滅(まめ)」を意味します。
鬼に角があり、トラ柄のパンツをはいているのは、鬼門に由来します。鬼門は鬼が出入りするとされる北東の方角で、十二支では丑寅(うしとら)の方角にあたります。そのため、牛(丑)の角をもって、虎(寅)のパンツを身につけているとされています。
節分

建国記念の日

戦前までは紀元節と呼ばれていました。
日本書紀では、初代天皇である神武天皇が即位した日が辛酉(かのととり)正月とあり、紀元前660年1月1日とされています。これを新暦に直して2月11日を紀元節として、1872年(明治5年)に制定されました。戦後、GHQにより神道の考えを排除しようとその祝日はなくなりましたが、その後、紀元節を復活させようとする動きが高まり、1966年(昭和41年)に「建国記念の日」となりました。

神武天皇

天から地へ天孫降臨したニニギノミコトの3代あとのカムヤマトイワレビコは、日本全土を平和に治めるためにふさわしい場所を求め、日向の国(現在の宮崎県)高千穂から瀬戸内海を経て東を目指します。その道のりは苦難に満ちたものでしたが、天の神に遣わされたヤタガラスの先導により大和に入り、橿原の宮(奈良県橿原市)で天下を治めます。初代天皇である神武天皇の誕生です。
東を目指した背景には、九州から本州へと広まった稲作文化の普及や、中国の勢力が、朝鮮半島、九州へ脅かす状況にあったからといわれています。
ヤタガラス

上巳の節句(ひな祭り)

五節句のひとつ。上巳(じょうし)とは3月初めの巳の日で、この日に川辺に出て穢れを落とす風習が中国から日本へ伝わりました。平安時代には形代(かたしろ 身代わりとなるもの)に息を吹きかけ、身体をぬぐうなどして穢れを負わせ、それを海や川に流していました。源氏物語の「須磨」巻では、光源氏が陰陽師を召し寄せ、須磨の海岸で祓いを行い、身体をぬぐった形代の人形を船にのせ海に流すとあります。枕草子にも雛遊びの記述があり、形代としての人形から雛遊びの人形など、信仰から遊具にいたるまで生活に息づいていました。やがて人形も立派に作られ、流すものから飾ってお祝いするようになり、女の子の健やかな成長を願う行事に発展しました。
雛祭り

春分の日 秋分の日

春分の日と秋分の日は彼岸の中日と位置づけられ、先祖を祀る習慣がありました。宮中では春季皇霊祭・秋季皇霊祭が行われ、歴代天皇の御霊がお祀りされます。
この日は太陽が真東から昇り、真西に沈むことから、仏教でも西の果てにあるといわれる極楽浄土(あの世)とこの世が交わる日とされ、祖先と最も心が通じやすいこの時期に先祖の霊を供養しようとお墓参りをします。

端午の節句

五節句のひとつ。端午は、月初めの午(うま)の日。中国では物忌み月とされた5月、さらには午が五に通じることから、5月5日をさすように。別名は菖蒲の節句。菖蒲の葉は香りが強く薬草としての働きや葉の形が剣に似ているため、災いや病気をもたらす邪悪なものを祓う力があるとされてきました。一方、この頃日本では、田植えをする若い女性(早乙女)が田植え前に身を清め災厄を祓うならわしがありました。
この風習と中国から伝わった端午の節句が混ざり合い、最初は女性が主役でした。やがて、しょうぶが勝負や尚武に通じることから、男の子の節句へと変化しました。
こいのぼりは立身出世の象徴で、鯉が滝をのぼって竜になるという中国の故事に由来します。5色の吹き流しにも魔除けの意味があります。

端午の節句

君が代

太古の昔、日本を治めていたのは、祈りができて、太陽や月、星の動きがわかっている者でした。それらの動きをみて「今から種をまきなさいよ、もうすぐ台風が起こりますよ、もうじき稲刈りをしなさいよ」というふうに指導できるものが卑弥呼のようなリーダーでした。不思議な力をもち、天文学、暦を知っている者、それを「日知り」(聖)といいました。
そのように祈りができる者がリーダーになってきましたが、今も国民が平和で過ごせますようにと絶えず祈っているのが、日本の象徴である天皇です。神社でも、神様にお供えをして祝詞をあげて、天皇がご安泰で日本の人々が平和で幸せでありますようにと、お祀りしています。天皇は国民のために幸せを祈ってくれる。だから我々は天皇がいつまでもご安泰で末々なるまでも栄えていきますように、そして我々のために祈りをささげてくださいといっているのが「君が代」です。
世界の国歌は勇ましい歌が多いですが、「君が代」は天皇を中心としていつまでも平和でありますようにという穏やかな歌です。歌詞は古今和歌集から「詠み人知らず」とされています。
君が代

祈年祭

「きねんさい」、「としごいのまつり」といいます。「とし」は稲の実りを意味し、稲種をまく季節のはじめにあたり、その年の五穀豊穣と国家の繁栄、国民の幸せを祈願します。

新嘗祭

11月に稲の収穫を祝い、神々からの恵みに感謝するお祭りです。戦前までは「新嘗祭」としての祝日でしたが、GHQの神道指令によって神道と国家行事が切り離され、戦後からは、米国の9月のLabor Day と 11月のThanksgiving Day を合わせた Labor Thanksgiving Day という祝日が考案され、これの和訳で「勤労感謝の日」と改称されました。

神道のこころ

※10月17日の伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)では、天皇がお作りになられた新穀が捧げられます。天皇はこの日、宮中(皇居)から遙拝(遠くから拝む)します。神嘗祭は、新穀を神様に供えることに重きをおいたもの。1か月後の新嘗祭では、天皇も自ら召し上がります。新嘗祭が終わって国民も初めてその年の新穀を食べることができました。新穀を先に神様へお供えしてから、自分たちもいただくという考え方です。天皇が即位されて初めて行われる新嘗祭を大嘗祭と称し、古くから最も重要なお祭りとされてきました。

狛犬

境内に対で並んでいますが、両方とも狛犬ではありません。一般的に、向かって右側の口を開けたものが「獅子」、左側の口を閉じたものが「狛犬」です。「獅子」は古代オリエントのライオンが原型とされ、ライオンが棲息しない中国に伝わり、唐獅子(からじし)という架空の動物となり飛鳥時代に日本に伝わりました。一方、「狛犬」は、平安時代に中国と朝鮮(高麗)を経由した高麗犬をルーツとしています。
一体が口を開き、他方が閉じた「阿吽」の形式になっているのは日本独自のものです。しかし、時代を経るにしたがって両者の区別が曖昧になり、呼び方も単に「狛犬」になりました。
狛犬

鎮守の森

その土地の守護神を祀った神社を取り囲む森です。神社の建物の中に神様がおられるというのではなくて、もともと森や山や川のなかに何かパワーが湧き出るのを感じた昔の人が、そこにある巨木や巨石に神様を降ろしていたのです。時代が進むにつれて、いつでも参拝できるように神社が建てられたのはその後になります。
鎮守の森

直会(なおらい)

お祭りの後に、お供えした神酒(みき)や神饌(しんせん)をいただくことです。「食べ物」の語源は「賜わりもの」からきていると云われています。神様が召し上がったお酒や食べ物をお祭りに参列した皆でともにいただくことで、神様のお力を授かり、神々と一体となって生きていくということです。お祭りが終わって平常に戻る、「直り会う」から直会といいます。直会が済んで、すべての祭りがととのいます。結婚式のときの三三九度の盃もその名残です。新郎と新婦が神様のおさがりの同じお酒を飲むことで一つになります。

安産祈願

子供は神様から「授かる」といわれ、神様からの恵みと考えられてきました。妊娠5ヶ月目の戌の日に神社にお参りし、安産を祈願し、帯祝いを行います。帯祝いとは、大切な子を授かった身に感謝し、岩のように丈夫に育ちますようにとの意味を込められた「岩田(斎肌)帯」をしめる習わしのことです。犬は多産で安産であることから、これにあやかってこの日にお参りします。
安産祈願

産湯(うぶゆ)

赤ちゃんが生まれてすぐに氏神様がお守りくださる土地の水につかることです。産湯の後、麻の葉模様の生地で作られた産着を着せ、生命の発展を祈ります。
麻は虫がつかず、魔除けの意味があり丈夫でまっすぐ成長することから、赤ちゃんがすくすくと元気に育ってほしいという願いが込められています。
産湯

お七夜

子供は神さまからの授かりもの。赤ちゃんの名前は誕生して7日目の「お七夜」につけるのが一般的です。赤ちゃんの名前を神さまに報告するために命名書を神棚の近くに貼ります。昔は子供が誕生しても必ず無事に育つとは限らなかったことから、「七日目」を大事な節目とし、お祝いをしたのがはじまりです。
お七夜

初宮詣(お宮参り)

赤ちゃんが初めて氏神様にお参りして、無事に誕生したことを感謝し、健やかに成長することをお祈りします。また、新たに地域の氏子の仲間入りすることを奉告します。
氏神様は自分が住んでいる地域の守り神なので、自宅周辺か、親御さんの出身地・実家周辺の神社へ赴くのが古くからのならわしですが、どちらの神社へ参っても差し支えありません。赤ちゃんが無事に誕生して1ヶ月を迎えたことを神様に感謝して、男の子は生後31日目、女の子は33日目にお参りするのが一般的ですが、皆さんがそろって集まることができる日がよいでしょう。
初宮参り

お食い初め

平安時代から始まったとされ、乳歯が生え始める生後百日頃を迎えるときに、一生食べることに困らないようにとの願いを込めて、お膳を用意し食べる真似をする儀式を行います。お膳には赤飯や鯛などの焼き魚、吸う力が強くなるようにとお吸い物などを載せます。地域によっては、歯が丈夫であることを祈り、お膳に小石を一緒に載せるところもあります。
お食い初め

七五三詣り

三歳→男女の「髪置(かみおき)」の儀
昔は赤ちゃんのうちに髪を剃っておくと、後に黒く美しい髪になるといわれ、それまでの坊主頭からこの日を境に髪を伸ばしはじめました。白髪になるまで元気になるようにと、生糸で作った白髪のかつらを頭にかぶせ、そのてっぺんに白粉をつけて祝う儀式が鎌倉時代からありました。

五歳→男子の「袴着(はかまぎ)」の儀
平安時代の貴族による政治が、鎌倉時代になると武士の世になって後継ぎが育つことが大事になってきました。五歳まで育った男の子に袴をはかせ、後継ぎとして無事に成長するように祈りました。

七歳→女子の「帯解(おびとき)」の儀
ひもで結ぶ乳幼児の着物から帯でまく大人の着物に変わり、体の成長にあわせてサイズを自由に変えられるため、これからもすくすくと成長して欲しいという願いが込められています。七歳までは神さまの子、神さまに命運を託されている存在。七歳になってはじめて「氏子」(人間の子)となり戸籍に名前が記されました。

はじめは男女どちらの子供を祝うもので、年齢も月日も決まっていませんでした。江戸時代に庶民にも広まり、三と五と七を陽数(縁起の良い数)とする中国の考え方からこの年齢を男女別に祝うようになりました。これらをまとめて七五三詣とよばれるようになり、一般には稲の刈り取りを終えた11月15日前後にお参りします。数え年で行うのが習わしですが、身体の成長に応じてお参りの時期をずらしても構いません。数え年、満年齢どちらでもお受けいただけます。

753千歳飴

十三詣り

数え年13歳に成長した男女が厄難を祓い、知恵を授けてくださるように参拝します。13歳は12の干支が一巡し、自分の干支に回ってくる初めての歳で、特に女の子は体が子供から大人へと変わっていく時期で厄年とされています。

結婚式

日本の結婚式の歴史は、「古事記」や「日本書紀」の記紀神話に記されており、様々な逸話が残されています。「国生み、神生み」する初めての夫婦神である伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)の結婚式の形を範として、古代から受け継がれた日本の儀式です。
平安時代には、男性が女性の元へ通う「通い婚」という風習があり、女性の元へ通いつめ三日目に、お披露目の宴が催され、これが現代の披露宴に類似するものだとされています。
結婚式は家の中でおこなわれていましたが、明治33(1900)年に大正天皇(当時皇太子)のご成婚のときに初めて現在のような神前結婚式がおこなわれ、これを記念して、東京の東京大神宮で神前結婚式が始まり、以後、各神社へ普及していきました。
神前結婚式のクライマックスの夫婦固めの儀いわゆる三三九度は、三回に分けて三杯ずつ頂くのでそうよばれます。以下のように、神話から祖神、祖神から祖先、そして自分たちがそれにつながっているという意味合いがあります。

一杯目:(過去)新郎新婦の巡り合わせをご先祖に感謝する
二杯目:(現在)二人で末永くちからを合わせて生きていく
三杯目:(未来)これから築いていく一家の安泰と子孫繁栄の願いを込める

結婚式

大祓(おおはらえ)

日本人はきれい好きといわれていますが、私たちの祖先は清浄を貴び、清く明るい生活態度を心がけてきました。しかし、日常生活の中で気付かぬうちにあやまちを犯し、罪けがれを身につけてしまいます。その罪けがれを祓い清め、神さまからあたえられた元の清浄な姿に立ち返ることを願い、神社では6月30日に夏越の祓、12月31日に年越の祓をおこないます。過去半年間を反省し、心身を祓い清め、次の半年を気持ちを新たに迎えてきました。
夏越の祓では茅の輪をくぐります。茅の輪は植物の葦からできており、神話では日本は「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、葦が豊かに実る瑞々しく美しい国とされてきました。古くから命の源である水を浄化してくれるこの不思議な植物を夏越大祓の茅の輪くぐりなどに用い、自分自身の浄化と暑い夏をのりきれるよう願いを託したのです。
12月31日には、神社で年越の祓が行われますが、寺院では人間の煩悩の数と同じとされる108回の鐘が鳴り響き私たちの煩悩を消し去ってくれます。

祈祷

日本書紀の天照大御神が天岩屋戸に隠れ神々が天照大御神のお出ましを祈る場面で初めて祈祷という文字が現れます。個人祈祷は平安中期の陰陽師の活動によって始まりました。歴史書「吾妻鏡」に源頼朝が祈祷を行うにあたり神宮神職の名が記載されていたことから、鎌倉時代にはすでに神職が個人祈祷を行っていたことが伺われます。
祈祷の中心にあるのは祝詞であり、神々に捧げる言葉です。言葉には言霊が宿ると考え、麗しい言葉が用いられています。

大祓詞

祝詞のなかで一番古いもので、これを唱えれば、すべての罪穢れが祓われる神様のお言葉です。この祝詞は昔からずっと続き、毎日、全国の神社で唱えられています。

祓いは、ひらがなにすると「はらい」。
「は」は、生まれるという意味。「は」をふたつくっつけて、「はは」は、子どもを産む「お母さん」。また木の葉の「は」も、生物を生かす酸素をつくるので「は」。
「ら」は、「ぼくら」「きみら」の「ら」で、「たくさん」という意味。「はら」(腹)は、赤ちゃんを育てる力がたくさんある所だから「はら」。
「い」は、「いのち」の意味。お米の「いね」は命の根っこです。よって「はらい」とは「いのちがたくさんうまれる」という意味です。

「つみ」は、漢字で書くと何か悪いことをしたときの罪というように思われますが、そうではなくて、神様からいただいた素晴らしいありのままの姿を「つつみ」隠してしまうこと。また、「けがれ」も「穢れ」と書くと何か汚いものが連想されますが、本当は「気枯れ」で、神様からいただいた「気」を枯らしてしまうことです。
このように罪穢れは、人間を生かす「気」を衰えさせるものとしてお祓いをします。「はらい」というと自分についていたものが、別の人にうつってしまうのではと心配されます。しかし、イソップ物語の「北風と太陽」のように、強い風でビュンビュン吹かせて脱がせるのではなく、暖かい太陽の光を浴びて自然と脱ぎたくなり、消えていくというイメージではないでしょうか。

恩頼(みたまのふゆ)

祝詞によく使われ、神の神秘なはたらきや恵みのことをいいます。何故このように読むのでしょうか。
諸説ありますが、春は木の芽が張るところからハル。夏は稲がナリタツや暑いが転じてナツ。秋は天候が明らかだからアキ。冬は御魂が殖(ふ)ゆる時期だからフユといわれています。
冬に「ふえる」というのは、どういうことでしょうか。
自然の生命力や人の御魂は、冬には太陽の力の衰えと共に弱くなっていきます。
植物も冬になると地上部は枯れているように見えますが、地下部は枯れていません。春にむけて増殖する力を宿しています。同じように、冬は暖かい春が訪れるまでひたすら心身を清め、行動を慎み、自らの御魂を増大させる期間と考えられてきたのです。

「中庸」と「道」

日本人は昔から、移り変わりのなかに神をみるという感性をもっています。夕方、西の空に沈む真っ赤な夕日に感動し、それを神様のお姿として拝むように、昼から夜に移り変わる夕方に神をみてきました。すなわち、「中庸」に神をみてきたのです。

ち=神の知恵、いのち
ゆう=結う、結ばれて現れること
よう=様、姿

このように、神のいのちが現れた姿のこと。神が現れたら、そこは「うつくしい」。日本人の美に対する文化は、神様の姿に近づき、それを表現しようとすること。それは、剣道、柔道、茶道などの「道」という考え方のなかにもあらわれています。勝負を超えて、「練習」ではなく「稽古」を通して神様に近づく、神の美をあらわすということです。

中今(なかいま)を生きる

神道の考え方で「今を生きる」という意味です。過去のことにとらわれないで、あれこれ先のことを考えてとり越し苦労をしないこと。日常の生活を精いっぱい充実して生きる。功徳をつんで、死後、極楽浄土へ行くという教えの仏教とは違います。視点が現世です。この世を精いっぱい生きる。
今、自分がここにいるのは両親、祖父母をはじめとして、命の連続の中で生きています。日々の生活の中では、人は自分のちからで生きていると思いがちですが、この世にいる自分は多くの祖先の血を引き継いでいます。そして子孫へと中継ぎしていきます。だから自分は一人ではありません。そう考えると、気分が落ち込んだ時でも「おじいさんも今の私と同じようなことがあったのかな」などと、気持ちに余裕をもてるようになるでしょうか。



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